劇場版感想記録

劇場版名探偵コナンの長めの感想をまとめて記録します

2023年 黒鉄の魚影 ①

開幕しました。

今年もまとまった長さの感想に関しては、ここに記録がてらまとめます。

 

なんかも~~話したいことが沢山あるんだけれど、原作を好きな人が見て良いなあと思える部分が随所に散りばめられていて、その人が過去に何があったのか、今何を大切にしているのか、を自然な流れで織り込んで描写されててすごく上質なものを見た気持ちです。

今年も主要キャラ数が相当多い上にガッツリ組織編で人間模様も複雑なので、見どころありすぎて一度に語れない。

ということでひとまず初見の後真っ先にこれだけは書き残しておきたかった、ということを書いておきます。

別所でひっそり壁打ちしたものをまとめて少し文章整えた程度なので、以下ライブ感込みの記録。

 


執行コンビだから信頼してるとはいえ今作個人的最大の懸念事項が「新蘭哀の三人の関係をどう描いてくるか」だったので、自分の目で見届けて、想像してるよりずっとずっと尊い感情見せてもらえてぐちゃぐちゃに泣いた……

灰原哀江戸川コナンに恋してるけど、同時に同じだけ蘭ちゃんも灰原哀にとって大切な人なので、この恋は一生叶うことはないとわかった上で自分を助け守ってくれる二人のことがずーっと大好きなんだろうな。自分の「好き」という感情もそれはそれとして持ちながら、大事な人たちにとっての幸いが幸いであってほしいと願えるような素敵な女の子になったね……

コナンくんに恋をしてる、蘭ちゃんのことを姉のように慕ってる、歩美は初めてできた大好きな友達で、家族みたいに愛情向けてくれる博士がいて、自分が周りにいっぱい助けられて今の自分らしさを肯定できるようになったところから、黒鉄でさらに「助けてくれた人たちを助けて守れる自分でいたい」までもうひとつ成長したのを目の当たりにして、なんて美しい瞬間を見せてもらっているんだろうかと思った。

コナンくんを助けるために海に飛び込んだ哀ちゃんのスカートがまるで鰭のようで、ジェットのバッテリーが切れた後に自分の腕で水をかいて泳いでいくところ、きっとそんな深い意味はないのかもしれないけど、わたしにはそれこそが灰原哀が得た「美しい鰭」なのかもしれないと思えてならないのです。自分という身ひとつあれば、どこだっていけるしなんだってできる。そういう力も自由もちゃんと持ってる。

灰原哀ソングでalways以上のもんある?って思いながら生きてきたけど、この度美しい鰭というこれまた最高の灰原哀ソングをお届けしていただいて、あれから二十数年待った先の世界を噛み締めている。
天カウは、死に場所を探してた灰原哀が生きようと思って生きられるようになるきっかけのひとつの話で、風向きが少し変わった時にそっと背中を押してくれたのがalways、そこから大切な人守りたい存在が増えて、強くなった灰原哀が今度は自分らしさを前向きに受け取って、一人の女の子として広い海に自由に泳ぎ出す時の曲が美しい鰭なんだろうなと思いました。

哀ちゃん(志保)にとって蘭ちゃんってお姉ちゃんのような温かくて優しい人であり、その中に同性の同じ年頃としてちょびっとの憧れのような気持ちもあるのだろうと感じているんだけど、かつてはイルカの彼女と比べた自分を嫌われ者なんて蔑んでた哀ちゃんが自分の持つ鰭の美しさを肯定できるようになる過程には、色んな人との関わりの中に、間違いなく蘭ちゃんが分け隔てなく注いできた真っ直ぐな愛情もあるんだろうな。助かってよかったって抱きしめてくれた蘭ちゃんをそっと受け入れたシーンの尊さよ。

 

子供の言葉で私は変われた、と哀ちゃんは言った。

「逃げたくないもん」

「米粒ひとつでも残したらバチが当たるって母ちゃんが言ってた」

「離しませんよ、絶対に!」

「自分の運命から、逃げんじゃねーぞ」

数々、哀ちゃんに向けられた言葉たちが脳裏に浮かんで、そしてベルモットに撃たれそうになったところを飛び出してきて守ってくれた蘭ちゃんの姿を思い出していた。

嫌われ者なんかじゃないよ全然、愛してくれる人、大切にしてくれる人、守りたいと思ってくれる人、いっぱいいる。

EDの「美しい鰭」という歌詞に合わせてイルカを映す粋な演出がまた素敵だった。

 

いつか「生きる義務」がある、からさらに「自分が望んで生きている」になったらいいなあと、こらからの晴れやかな未来を切に願っています。

 

傑作の脚本について

過去も今も繋がっている。必要なキーが過不足なく組み込まれた脚本がすごい。


これまで暗黙の了解みたいなものとして、劇場版の世界は原作とはまた異なる独自の軸として捉えてきたところがあったので、今年初めてはっきりと原作から続いてる時空で描かれることに驚いたのと、どうなるんだろう?という戸惑いもちょっとだけあった。


元になる事件が描かれたのはもう20年くらい前であり、さらに今回メインに据えられてる高木佐藤は初期からのレギュラーなのに対し、警察学校組はここ数年で一気に展開された設定。

原作屈指の名エピソード「揺れる警視庁」から続く時間軸に、こちらも人気の高い長寿シリーズの「本庁の刑事恋物語」もベースになっている。さらには番外編にあたる警察学校組「WPS」と、過去一で関連エピソードの多い劇場版になったんじゃないだろうか。

とにかく要素が多いし、メインキャラも恐らく過去最多と言える。原作の後付けで作られる話なので、ともすれば蛇足感だったり無理矢理ねじ込んだ部分が出てきてしまう怖さもあったと思う。

そんな多くのキャラクター、彼らに纏わる過去のエピソード、そういうものがハロウィンの花嫁では、全て「必要なもの」として組み込まれていた。

何一つ欠けても、誰一人欠けても成しえなかった結末。それがすごい。


劇場版オリジナルキャラクターであるエレニカたちも含めて、プラーミャというテロリストに立ち向かう上で無駄な人が誰一人としていなかった。

全員が、あの窮地を乗り越えた先のハッピーエンドに必要だった。

だから誰のファンが見ても「役目があってそれを果たしてくれた」と思えるのでしょう。

さらにその個々の必要性が、過去も現在も地続きで全部繋がっている。すでに亡くなっている人、今を生きている人が、そんな隔たりも感じさせることなく、彼岸も此岸も一緒になって成し遂げたんだ、と思わせてくれる描き方。


故人とのエピソードに悲しみや寂しさは付き物だけれど、過去を振り返る描写は時系列の遡りがとても自然で、とてもいきいきと動いている姿のまま描かれていた。

人は死んだら思い出の中でしか生きられないけれど、思い出の中の彼らは別に悲しい顔なんてしてないですものね。

大切な人たちが、一番その人らしく生きていた時の記憶そのまま鮮やかに残されている。

故人のエピソードを描く上で、ファンが求める大正解を見た気持ちです。


さらに、事件解決のために必要な要素を隙なく配置する一方で、楽しませるための仕掛けも至る所にある。

例えば回想シーンひとつでも過去の事件のオマージュが散りばめられ、仮装した一般人の中にはさりげなくナイトバロンが紛れ、事件の合間には高木佐藤以外の本庁カップルたちのシーンもちゃんと見せてくれています。

隠し要素的に含まれる、みんなこの話読んでるよね?見たいよね?というサービス精神。それに気づいた時のなんとも言えない嬉しさ。このために何度も通いたくなるし、何度見ても飽きさせない山場のある最初から最後まで中身いっぱいの映画。

大倉先生、よくぞここまで仕上げてくださいました………


そんな今作の過去も現在も一体になる繋がりの要素のひとつとして、やはり何度も書いているように原点回帰の演出があると思います。

初見感想でも書いたクライマックスで流れる「キミがいれば」はその最たるものですね。

自分の記憶では、最後に作中で流れたのが10周年記念作「探偵たちの鎮魂歌」だったので、あれからもう10年以上も経った今、25作目での復活です。

新しいアレンジと共に、変わらない歌が流れてくる。エンドロールでクレジットされた作曲者・大野克夫の名前に、これまでの24作を支え続けた方への真摯な尊敬を感じました。


物語としても制作面でも、同じように言えることが、過去を過去として今で上書きせず、等しく大切なものとして共存している。

ふとしたところでさりげなく重なっている。

何かが何かを邪魔することのない、隅々まで行き届いた細やかさ。

これを愛と言わずになんと呼ぶんだろう。


25作目の傑作は、「過去よりも」傑作ではない。

原作とテレビアニメ、劇場版24作、名探偵コナンの築いてきたこれまでが作ってくれた傑作なのです。


誰もが納得するハッピーエンドの訳

※ふせったー再掲



ハロウィンの花嫁という作品において、報われてほしい人たちが報われて、救われてほしい人たちが救われた。

過去にやり残したことにかたをつける。それがこの映画のハッピーエンドたる所以だと思うのです。

昨日の感想を綴った文章の中でも書いたのですが、ハロウィンの花嫁は、過去に辛く悲しい思いをしてきた人に寄り添ってくれる物語。家族を亡くした、友人を亡くした、尊敬していた先輩を亡くした、そういう喪失と共に、あの時ああしてれば、という後悔を抱く人も少なからず存在している。

特に印象的に描かれていたのが息子を殺されたエレニカ。あの時燃え盛る火の中に飛び込んででも助けたかっただろう、愛する夫や子供が死んでいくのを成す術無く見ていることしかできなかったというのは、彼女にとっての大きな後悔でもあったと思う。民間組織を立ち上げたのは理不尽に命を奪われたことに対する復讐のためだけれど、エレニカの本当の願いは「死ななくても良かったはずの夫や息子を助けたかった」だったはず。彼女たちはプラーミャに復讐するために悪事も沢山働いた。それは決して許されることではないし、これからも消えない事実ではある。ただ、そんな彼女をただそっと抱きしめることで、これ以上罪を重ねさせることなく本当の願いを叶えさせた。その選択を与えたのが江戸川コナンという一人の少年。

そうして助けられたエレニカやその仲間たちは探偵団の子供達を助け、渋谷に集まった罪なき大勢の人たちの命を救った。最後、探偵団や村中さんがエレニカ達に助けられたお陰だ、と話すシーンが挟まれたこと、あれでちゃんと彼女たちに「あなた達が助けた命がある」という救いを用意してくれた。

過去に死なせてしまった復讐者に、今度こそ生きる選択肢を与えることができた江戸川コナン。過去に助けられなかった息子と同じ年頃の子供達を、今度こそ助けることができたエレニカ。後悔という形で時を止めていた時計を、やっと自分たちの手で進めたのです。


そしてもうひとつ、過去のやり残しに決着をつけた人。それが降谷零と、彼の同期達です。

三年前に取り逃した爆弾魔。爆破こそ未然に防ぎ、ギリギリまで追い込んだけれど、手負いにしたものの捕まえることは叶わなかった。いわばこれは当時の彼らにとっての未解決事件でもある。そんな事件の犯人であるプラーミャを最後に追い詰めるのが降谷零であり、そして日本警察だったこと。あの時仲間に飛ばされて追いかけて一歩届かなかった相手に拳を届かせた。墜落するヘリに飛び移る降谷零は、三年前の続きの光景。あの時に助けてくれた仲間達はもうそばにはいないけれど、彼らの残してくれた技術、信念、一発の弾丸が、一緒になって降谷零を助けてくれた。

もしあのままプラーミャの乗ったヘリが墜落していれば、どのみち地上にいる警官たちによって捕えられていたかもしれない。だけどこの事件に関しては、同期達の残したものと共に、降谷自身の手で決着をつけることに意味があったのだと思います。

エンディングで、仲間達との写真を前に献杯を捧げる降谷零。警察学校時代から一緒に沢山の無茶をしてきた彼らなら、ヘリに飛び移って自分の拳ひとつで立ち向かったことに、ゼロらしい、なんて笑ってくれたりするんだろうなあ。

警察にとって、犯罪者を捕まえて法のもとで裁くことが使命である。プラーミャの犯行をこの東京で終わらせたこと、今回の事件に関わった全ての刑事たちにとって、何より報われる結果だったと思う。


今回の犯人であるプラーミャはテロリストであって、100%の純粋なる悪。ミステリー、刑事物としては、勧善懲悪としてのすっきりとした結末になっていることも良かった。ラストのエレニカたちに関しては、古き良き刑事ドラマにあるような、人情ものっぽさもある。

観た後にもやが残らない、晴れやかな気持ちで劇場を後にできる。考えさせる物語ももちろんいいものだけれど、こうして誰もが「よかったね」と前向きに終われる作品は、25作目にとてもふさわしいものでした。


初見感想全文

※ふせったー投稿分の再掲です


ハロウィンの花嫁、見終わってこんなに心にじんわりと染みてくる優しさを感じて泣いたの初めてでした。


過去と現在と、所属や国籍の違う人達と、今も大切なままの仲間と、そういう繋がりのようなものがひとつ、この話の軸にはあったように感じた。意図した訳ではないけれど今この作品が世に放たれて、傷ついた人にもそっと寄り添ってくれる、ひとりじゃないよと伝えてくれるような温かさは見る人全てに優しいなあと思う。

 

人は死んだら思い出の中でしか生きられないけれど、思い出の中でいつもどんな時もそばに居て助けになってくれる。ハロウィンの花嫁ってそういう物語なんですね。


事件を紐解くヒントになったのは松田が三年前に渡した名刺で、そもそもプラーミャをここまで追い詰めることができたのは三年前に警察学校組の四人が警察官としての矜持を全うしたから。当時も今も爆弾から大勢の命を救ったのは、萩原の何気ない行動からだった。今はもう亡き人たちの残したことが全部綺麗に繋がって、三年後大きなテロを食い止めた。ひとつひとつの行動を振り返れば全部何気ないことばかりだったかもしれないけれど、無駄ではなかった、というか、遺された人たちが無駄にはしなかった、というのが正しいんだろうな。「命懸けで手に入れたんだ、無駄にはしない」という作中のセリフはコナンくんに向けられてのものではあるけれど、それは作品全体にもかかるものにもなっている。


特に故人との関係が散りばめられていたからというのを踏まえても、他者への尊重がずっとベースにあるのを感じたので、淀みのないとても綺麗なお話だった。わたしの好きな名探偵コナンってこういう作品だったな、とまた改めて思い出させてくれる。


江戸川コナンの探偵としての信念、どんな非情な犯罪者であっても死なせない。それはどの劇場版でも一貫していることだけれど、信念の貫き方が変わってきた。探偵として真実を追求するとことは正しい。それでも正しいだけではどうにもならないことも世の中にはあるし、執行の草壁検事のように、正しさを追い求めすぎて道を誤ってしまう人もいる。


そして何より、悪人を許さないために復讐に手を染めることを正しくないと追求した結果死なせてしまったのが成実先生で、あの事件こそが江戸川コナンという探偵に「たとえ犯人であっても死なせない」という信念を抱かせるきっかけになったものだった。あの時どうすれば助けられたのか、歯痒さも悔しさも経験してきた今のコナンくんだからこそ、人の苦しみに寄り添うという選択肢を持てるようになったんだろうなと思う。復讐者だって、本当はそんなことしたくてしてるわけじゃない、それを上回るほどの苦しみ悲しみがあるんだと気づけたことは、彼にとってすごく大きな成長でもあった。ここでも過去の経験が残してくれたものが、巡り巡って一人の復讐者を救ってくれたんですね。

「プラーミャの息の根を止める」という意味だった「ナーダ・ウニチトージティ」という言葉が、コナンくんによって「テロによる悲しみの連鎖を止める」という意味に変わるの、なんて鮮やかで美しいんだろう。


執行の時のテーマでもあった「真実はいつもひとつだけれど正義は涙の数だけ」、単なる広い意味での正しさだけじゃない、なんというか人の情も含んでいるように思えます。ひとつの正義が必ずしも正解ではなく、その時その人のための最善を選べることもまた、正義と呼んでもいいのだと思う。


執行では利害関係の一致で繋がり最後は別々の道を歩んで行ったコナンくんと零くんの二人が、今はもっと確かな信頼関係のもと同じ方向を向いて協力し合えていることにもとても感慨深くなった。お互いにただこの事件を止めたい、人を死なせたくないという一心で腹を割って手を尽くすことを惜しまない。降谷零は確かに孤独な人ではあるけれど、彼の中には今でも頼もしい仲間達がいて、彼らが残してくれたものがきちんとあって、そして今は今で心から信じることができる人がいる。元々完璧じゃなかった彼は、仲間達に助けられて強くなった。矛盾しているようだけれど、降谷零の孤独は独りではない、そう思わせてくれる描写ひとつひとつに涙が出ました。


誰か一人が全部を背負うのではなく、全員で力を合わせての結末。捜一も公安も、ナーダ・ウニチトージティのメンバーも、今できる最大限で必死に守ろうとしていた。心強い仲間の存在というのが最初から最後まで描かれていて、その瞬間に流れるのが「キミがいれば」。あの場にいた人たちそれぞれに「キミ」がいたから、未曾有の大事件を止めることができた。劇場版クライマックスの代名詞みたいな名曲で、第一作からのこだま監督時代を見て育ってきたファンにとって、こんなに感情を揺さぶられることもないです。

クライマックスにメインテーマが流れる演出は踏襲されてきたけれど、「キミがいれば」が最後に流れたのはもう随分前になり、懐古厨のひっそりとした夢として「またクライマックスで流れる『キミがいれば』を劇場で聴きたい」とつぶやいたりしていました。2022年、まさかそれが叶うなんて。

今回劇伴が大野先生から変わるとのことで、流れてくるBGMが洒落て新鮮でかっこいい!と思いながら、反面あの大野先生のサウンドがないことに寂しさも感じていたのですが、「コナンといったらこれだよね」を王道の形で見せてもらえたことに、驚きと感動で初見の時は椅子の上で飛び上がりそうになった。


ここ数年の感想で毎回言っていることだけれど、長く続けていくためには変化も必要で、時代が新しくなるように作品だって新しくなっていくのが自然な流れではあるのだけれど、それでも昔の良さ、ファンがずっと好きでいる部分はぶれないで残されていることに涙出るほど嬉しくなる。勝手な受け取り方かもしれないけど、ずっと好きでいてくれてありがとうって言われているような気持ちになる。

これまでの原作、劇場版の長い歴史をひとつひとつ大切にしてくれているんだなと感じました。


大切な思い出に寄り添う、それは作中の人々だけでなく、ハロウィンの花嫁という作品そのものにも言えることだった。余談ですが、世紀末の魔術師ではロシア語の「思い出」という言葉がキーになっていたなあと思い出しました。ハロウィンの花嫁を見た今、また一段と深く噛み締められるような気がします。

ふと昔を思い出すこと、秒針の止まった記憶、それらは決して過去に縛られているのではなく、君のいない世界の中で息をする理由に応えたいという、生きる人たちの歩みである。大切な人たちとの思い出に助けられた物語の最後に添えられた一曲は、夜明けの景色のような暖かさだった。

この濁りのない余韻、胸にじんと沁みるものをゆっくりと噛み締めたくなる心地は、沢山の思い入れ含めて今も変わらずに大好きな劇場版黎明期の懐かしさにも似ています。


初回を観に行った時、同じ回に来た子供がすごく楽しそうに「コナンだよ!」と言いながら客席に駆けていくのを見かけて、昔の自分を見てるようでした。今コナンに出会った子供達が、10年、20年経っても同じように好きでいてくれたらいいなと思う。わたしも26年経ってもやっぱり好きだなあと思えることが、どんなに幸せだろうか。


毎年同じ言葉で感想を締め括れることにありったけの感謝を込めて、今年も本当に、ありがとう!